「学校に行かない」を原則から考えてみる

学校に行かないことを、
「逃げている」「怠けている」という人がいます。

「我慢が足りない」とも。


私自身、
「働かざる者食うべからず」と育てられ、
「子どもは学校に行って勉強するのが仕事だ」と言われてきたので、
「逃げている」「怠けている」「我慢が足りない」と思う人がいるのも分かります。


さて、では、

イヤなことがあって、
「逃げる」、

やりたくないことがあって、
「やらない」のは、

いけないことでしょうか?



「怠けている」「我慢が足りない」ように見えることをするのは、
いけないことでしょうか?



では、見方を変えてみましょう。



自分がイヤなことがあるのに、
それを抑え込んで、

まるでイヤだと思っていないように、
ふるまうことは、
いいことでしょうか?
イヤなことを「イヤ」と言わなかった気持ちはどこに行くのでしょうか?

自分の気持ちをなかったことにすることで、
自分のことを好きと思えるでしょうか?

そのうち「イヤ」と感じることすらできなくなった状態で、
「すき」を感じられるのでしょうか?


「いい」も「いけない」も、
見方が変われば答えはガラッと変わりますね。



私はいつも迷った時には、

「この状態を重ねていったら、どんな未来につながるだろう?」
を基準に考えます。


「7つの習慣」では、
原則中心の生き方をすすめていますが、
重ねていったらよくない結果を招くことは、原則からはずれます。


自分の感じる心を自分が否定せずに受け止めること。
自分の望むことをすること。

たとえそれが「学校に行かない」ことだったとしても。
不登校の状態を重ねていっても、よくない結果になるとは思っていません。・

人生は長くて、何が起きるか予測がつきません。
人生80年のうちのたった数年間、学校に行かないことで、致命的になるとは考えにくいです。

自分のことを好きと思えなかったり、
自分が何を感じているか分からなくなる状態を重ねていく方が、
私にはとても深刻に思えます。

イヤなことを「イヤ」と言い、
したくないことをしないのも、勇気がいることです。

不登校の子どもたちは、
それをしているわけです。
十分がんばってるじゃないかって思います。

したくないことをしない生活を自分に許し、十分に味わって、
そのあと、ようやくその子らしい生き方がきっと見えてきます。

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