心臓病を患っている上にリウマチがある母は、
血液サラサラの薬を飲み、
皮膚が弱く、
手足や肩に力が入らず、
自力だけで歩くことができない。
皮膚が異常に薄いので、
少し強く推しただけでも青紫色になり、
少しの打ち身でも水ぶくれから体液がもれ、
少しの傷でも治りが遅く、
足はむくんでパンパン。
私がしていることといえば、
傷のガーゼを毎日取替えに行くことで、少しでも早く傷が治るように祈り、
毎朝作ったおかずを少量届けることで、
自炊できなくても買ってきたものではなくて、
炊いたお米とおかずだけの、おうちごはんを食べれるようにしている。
それでも行けば、
いい顔をみせてくれる日ばかりではなく、
しんどそうにうつむいている日や、
父とケンカしている日や、
父への不満を言う日もよくある。
私はここで何を学ぶのか?
働き者だった母も、
今となれば彼女が生み出しているものは、数少ないかもしれない。
逆に世話してもらってなんとか暮らしている状況だ。
それでも生きていてくれていることは、何よりありがたいと思える。
一時期危なかったときには、
藁をもすがる思いでのぞんでいた状況(母と話せることや、母が自宅で過ごせること)が、
今目の前にある。本当にこれこそありがたいこと。
本人は、「自分でやれないことが悔しい」と言っているけれど、
人って、何か生み出さなくても、貢献していなくても、その存在がいてくれるだけで、他に何もいらないくらい十分なのだと学ばせてもらえている。
何かと世話になった母に、ようやく今、私は少しは役に立てていると思わせてもらえている、それは今の彼女のおかげなのだとも思う。
昔は一度も寝込まず、元気いっぱいで丈夫だった母も
突然動けなくなってしまったように、
私の今も永遠ではないと教えてもらっているようにも思える。
これは悲しいことではなく、今を存分に生きるために分かっておく必要があることだろう。
7つの習慣の第2の習慣「終わりを思い描くことからはじめる」だ。
良いことではないように思える現実の中に、
たくさんの感謝を見出して、
心穏やかに過ごしていきたい。