もし、仕事が忙しいお母さんが、
子どもが朝、起きてくれなくて困っているとしたら…。
学校に行きたくないってなったとしたら…。
仕事をとるのか、子育てをとるのか、という話。
ありそうな話です。
こんなケースでなくても、
ワーキングマザーは、仕事と子育てとをどうやりこなすのか、悩む人も多いはず。
今回はそこに焦点をあてます。
考えられる方法としては、
それがきっかけで仕事を変えたりやめたりする。
または、
寝ている子をパジャマのままでも学校へ送り届ける。
(どちらを選んでも、思い切りが必要ですけど💦)
つまり、
子どもか仕事かのどちらかを優先させることで、困りを解決することになります。
子どもを優先すれば、職場や働き方を変えるのだし、
仕事を優先すれば、子どもの意見を聞かないことになる。
ここで、
「親は犠牲になるのかどうか?」という議論になることがありますが、
この話が「犠牲」とすぐに直結するのはおかしいと思うのです。
自分以外(この場合は子ども)の声を聞くことが、
自分を「犠牲」にすることとはイコールではないからです。
ある人の行動が「犠牲」かどうかはどう決まるんでしょうね?
決める人は第三者ではなく自分自身なのだと私は思っています。
つまり、自分自身が主体的に決めていることは、
周りが「犠牲」と感じていても、実際は「犠牲」ではないということです。
つまり、
子どもを優先にして、楽しかった仕事をやめたとしても、
親自身がそれがしたくてしたことであれば、「犠牲」にはならない。
ここまで話をすすめていくと、
重要なのは、その行動が「犠牲」かどうかではなくて、
親が自分で決めたことかどうか、
つまり「主体的」だったかどうかになってきます。
子どものために、
子どものせいで仕事をやめた。働き方をやめた。のは、
「主体的」ではない。
これは依存の状態。
親自身が必要と思うから、
仕事をやめることにする。働き方を変えることにする。のは、
「主体的」で自立の状態。
前者の親は、
いつか誰かに愚痴を吐いたり、本意ではなかったことを伝えるでしょう。
それは、子どもも望んでないかもしれない選択を勝手にしておいて愚痴られて、迷惑な話です。
後者は、
子どもに対して、
愚痴を言ったり、非難したりしないでしょう。
抑圧された感情はないので、子どもにとっても悪影響になりません。
決めた人が、本心から「主体的」に「決める」かどうか。
ただ、それだけのこと。
本心から大事なことは何かを見つめて、
それを誰のせいでもなく、自分の決断で決めて大事にすること。
それができていれば、
どんな選択をしようが、犠牲と思われようがそうでなかろうが、
それでいいのだと思います。
私を含めてみんなが、
自分自身にとって大事なことは何かを問い続けて、
それを大事にすると主体的に決めて行動したら、
世の中の負の感情の投げ合いが少しずつでも減っていくと思います。
それでもって、
サドベリースクールをしている私としては、
困ったときは、素直な気持ちで家族に相談してみる。
そうしたら、まったく別の選択肢が生まれてくるかもしれません。
それこそが「相乗効果」なんでしょうね。